【島原半島|南島原エリア】民話「与茂作川」

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むかし、口之津に山田与茂作という者が住んでいました。与茂作は十歳になったとき、有馬の神学校セミナリヨに入りました。この学校では、キリスト教の神父になる者を育てるために、宗教、ラテン語、歴史、音楽、工芸、図画などを教えていました。与茂作は生まれつきの絵の天才で、牡丹の花を描くと、花弁も葉も水々しい露を含み、牛や馬を描くと本物のように走り出しそうなほどでした。あるとき、与茂作は、長崎の本蓮寺に一人の老人を描いた「南蛮杉戸」の絵を納めました。この絵の中の老人が、ある夜、杉戸から抜け出して廊下を歩いたという不思議な出来事が起こると、「生き絵描きの与茂作」の評判はあっという間に世に広がりました。その後、与茂作は絵の修行のため、江戸に登りましたが、時の将軍 家光が、与茂作の評判を聞きつけ、城に呼ばれることとなります。「お前の生き絵を、余の面前で描いてみせよ」家光の言葉にしばらく考えこんだ与茂作は、神妙な面持ちで答えました。「生き絵を描くには、私の生まれた口之津の家の東北にある泉の水を用いなければなりません」「ほう……それは面白い。それでは、その泉の水を早速取り寄せよ」こうして家光の命令によって、すぐに有馬の城主へ知らせが走ると、口之津の泉の水が江戸まで登ることとなりました。与茂作は、江戸にやってきた泉の水を使いましたが、どうも思う通りの絵を描けません。「……この水は江戸までの長い道中で力が弱まっていて、生き絵が描けません」これを聞いた家光は眉をひそめました。「与茂作は余を謀った、卑怯なやつめ……」と大変なご立腹となり、それから与茂作の評判はがったりと落ちてしまいました。このことがあってから、与茂作は口之津に帰って、有馬家に仕えていましたが、その後、島原の乱が起きました。このとき、与茂作は右衛門作と名を改めて、天草四郎側の副将となりました。ある日、総大将の天草四郎の前で軍議が開かれ、「皆の士気が上がるように、旗印を作ろう」ということになりました。そこで右衛門作は、真ん中にパンとブドウ酒、その両側に二人の天使がいる見事な油絵の旗を描きましたが、これが世界三大聖旗の一つ、国指定重要文化財「天草四郎陣中旗」です。戦いは、初めの頃は天草四郎側が優勢でしたが、幕府の老中 松平信綱によって兵糧攻めにあい、その上、平戸から加勢にきたオランダ船に大砲を打ち込まれてからは、天草四郎側はすっかり劣勢となりました。「とても勝ち目はない。黙っていては、皆が無駄死にするばかりだ」と思った右衛門作は、敵将 信綱の陣中に降伏の矢文を放ちました。ところが、これが味方の兵に見られて、右衛門作は囚われの身となります。明日は処刑という前の晩のことです。外の方で幕府軍勝利の叫びが上がりました。このとき天草四郎側はほぼ全滅し、牢屋にいた右衛門作だけが、ただ一人の生き残りとなりました。敵将 信綱は以前から右衛門作のことをよく知っていたので、これは何かの役に立つと思い、江戸へ連れ帰ったと言われています。右衛門作は、島原の乱に関する供述をした後、“キリシタン”や“江戸の放火”を取り締まる絵などを描いて、幕府に奉公したと言われています。口之津には、与茂作が生き絵を描くのに使ったとされる泉があり、そこから流れる小川は「与茂作川」と呼ばれています。

参考 / 吉松祐一『[新版]日本の民話48 長崎の民話』未來社

*生き絵“南蛮杉戸”にまつわる
民話「本蓮寺の南蛮幽霊井戸」を聴く

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