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第二章 賀来飛霞 日本の植物をうつす

島原藩医・本草学者 賀来佐之の弟で、幕末の三大本草学者の1人にも数えられる賀来飛霞。幼少期から植物をつぶさに見つめ続け、全国各地をめぐる植物調査で一層育まれた一流の写生技術は、カメラのように日本の植物をうつしとりました。(本文中の出典記述のない掲載図譜|賀来飛霞『動植物写生図』所蔵:大分市歴史資料館)

 

《タンポポ図》ほか

《カキツバタ図》ほか

《アジサイ図》

《源氏車図》ほか

《ナギ・テブシュカン図》

天才植物画家 賀来飛霞

植物を見つめて

1816年、賀来飛霞は、兄 佐之と同様に島原藩領の国東郡高田村(現在の大分県豊後高田市)で生まれました。1歳のときに医者である父 有軒を亡くすと杵築へ移住し、5歳で父と交流の深かった儒学者 帆足万里に入門して医学・本草学を学ぶようになります。江戸時代、父親がいないことは子供の間で仲間外れの原因となっており、飛霞は植物の絵を描きながら一人で過ごしていたと言われています。

天性の画才

賀来飛霞のもっぱらの関心は、本草学へと注がれていました。当時の本草学研究では、動植物の姿を正確に写しとる写生技術が必要とされていたため、飛霞は杵築藩の画人 十一石谷から写生技術を学びました。石谷は飛霞の写生技術について、「天性の才能があり、草花を描かせると自身もまったく及ばない」として高く評価したと言われています。

飛霞本草学の研鑽

賀来飛霞は、1834年、兄 佐之とともに赴いた京都遊学において、父 有軒が学んだ小野蘭山の門徒で、京都本草学の中心人物であった山本亡羊に師事し、現地調査に基づく本格的な本草学研究の手法を学びます。その後、九州はもちろん、近畿、東北、北陸・甲信越といった全国各地の植物調査に出向き、数多くの動植物写生図を描いた豊かな経験と実績によって、飛霞本草学は研鑽されていきました。

島原藩に貢献する

賀来飛霞は、度々島原藩からの勅命に応じており、島原半島の植生を研究調査した『島原採薬記』(1843年)、飢饉時の食用植物をまとめた『救荒本草学書』(1851年)を著したほか、1857年には急病で亡くなった兄 佐之に代わって島原藩医に任命されます。着任早々、1858年には日本全国でコレラが流行していたため、飛霞は藩内のコレラの治療に尽力し、藩主から褒賞を授かったと言われており、医学の面においても島原藩に貢献しました。

 

《藤にバッタ等図》

《桐に蝸牛・蛙》

《桔梗・吾亦紅に蝶・セミ図》

《睡蓮に川魚・川エビ・川ガニ図》

《山桜に蝶・蛾図》

飛霞のえがく 小さな世界

高精細カメラのように

賀来飛霞は、動植物の形状を捉えた輪郭線、色や陰影などを精緻に表現した彩色に至るまで、対象の生き生きとした姿を正確に描くことにこだわって、動植物の全体像や生態を詳細に観察・記録することを究極の目的としていました。写生図は本草学の最高の表現方法と捉えて一切妥協していなかったことが、後世に残された飛霞の動植物写生図においても端的に表れています。

近代植物学をさきどる

賀来飛霞の驚くべきところは、かなり早期からおしべ、めしべ、花弁の数を含めて、花のつくりを部分詳細として描いていたことです。1829年、本草学者 伊藤圭介が日本で初めて紹介した西洋植物学者 リンネの植物分類法は、おしべとめしべの数による分類を基本原理としていました。飛霞が当初からこの知識を知っていたかは判然としませんが、いずれにせよ飛霞の写生図は、当時最先端の近代植物学をさきどった科学的にも精度の高いスケッチであったと言えます。

 

賀来飛霞・伊藤圭介『東京大学小石川植物園草木図説』(所蔵:国立国会図書館)

最高峰本草学者 二人の共著

飛霞 植物学の集大成

賀来飛霞は、兄 佐之の盟友であった伊藤圭介の求めに応じて上京し、1878年、小石川植物園取調掛に任命されました。当時の日本最高峰の本草学者 飛霞と圭介の二人は植物学研究に勤しみ、日本最初期の植物図鑑『東京大学小石川植物園草木図説 巻一』(1881年)を出版しました。本書に収録された植物解説は、飛霞のライフワークであった植物の現地調査・記録を元に執筆されたもの。翌1882年、飛霞は圭介らとともに東京植物学会(現在の日本植物学会)創設にも尽力し、日本の近代植物学に大きく貢献することとなります。

植物学の原点へかえる

1886年、賀来飛霞は小石川植物園を退職した後、しばらくして故郷の佐田村に帰ってきます。晩年の飛霞は、植物学にのめりこむ原点であった故郷の自然に親しみながら悠々自適に過ごし、1894年、家族や門徒に見守られながら天寿を全うしたと言われています。

 

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