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序章 島原城主の御薬園 島原藩薬園

島原城主の御薬園で、日本三大薬園の一つにも数えられる国指定史跡 旧島原藩薬園跡。島原城の歴史の中で、江戸時代の医学の基礎として重要な“植物”がどのように注目され、植物図譜として描かれるようになったのかそのルーツをたどります。

 

島原城の外観

島原城ヒストリー

壮麗! 白亜の島原城

島原城は、1624年、領主 松倉重政によって築城された連郭式平城です。外郭は周囲約4kmの塀、7つの城門、33の平櫓があり、内郭は堀に囲まれた本丸・二の丸、その北に領主の居館である三の丸がありました。本丸は、安土桃山式の総塗込め・白亜の五層天守閣を中心に、3つの三層櫓がそびえ立つ壮麗な城構えでした。

キリシタンミュージアム

島原城の豪奢な築城は、多大な労働、過酷な重税、厳しいキリシタン弾圧と重なり、世界遺産 長崎・天草の潜伏キリシタン関連遺産でも重要な“島原・天草一揆”の引き金になったと言われています。廃城後、1964年に復元された現在の島原城天守閣はその由縁からキリシタン史料館などとしても利用されています。

島原城主の系譜

島原城は初代藩主の築城から約250年間、4氏19代(松倉氏2代 / 高力氏2代 / 松平氏5代 / 戸田氏2代 / 再び松平氏8代)の居城として島原藩政の中心地となりました。中でも、1664年から始まる松平家13代目までの長い治世が島原繁栄の礎となっています。

好学のお殿様

松平家は三河(愛知県)出身の由緒ある譜代大名で、好学の家柄として知られています。「文武両道が藩の基盤である」として、文学・歴史・兵法・絵図などの天下の貴重本を蒐集しては藩校 稽古館の教科書として役立て、医学専門の学校 済衆館を設立するなどの学問に力を入れながら、吉事には領民を招いて能楽を披露するなど、島原の学問・文化形成に大きな影響を与えました。

 

島原藩薬園のはじまり

最先端の医学充実へ

1793年、松平家島原城主 7代目 松平忠馮は、島原藩教育の基礎となった藩校 稽古館を創立、更に1821年、8代目 松平忠侯は時勢にあった医学の研究・修行の場として、三の丸の藩主別邸 常磐御殿内に藩校から独立した医学校 済衆館を創立し、島原藩の医学充実にも力を傾けていきます。

シーボルトの弟子 賀来佐之

1842年、9代目 松平忠誠は、長崎出島オランダ商館医・博物学者 シーボルトの弟子で、当時の島原藩領の国東郡高田村(現在の大分県豊後高田市)出身の賀来佐之を島原藩医として招きました。賀来佐之は、東洋医学 本草学を活かした島原藩薬園の開発、西洋医学の人体解剖・種痘(牛痘法)などで多大な功績を挙げたことから、島原の「国の宝」と称賛される逸材となっていきます。

本草学のガーデン 島原藩薬園

1843年、賀来佐之は、植物の薬効によって治療を施す東洋医学 本草学の充実のため、医学校 済衆館内に薬園をひらきました。しかし、この薬園は手狭な上に栽培環境も劣っていたため、1846年から7年の歳月をかけて、雲仙岳眉山のふもとに約1万㎡もの広大な薬園を開墾します。これが現在の日本三大薬園の一つに数えられる国指定史跡 旧島原藩薬園跡。こうした功績には、出島の中に小さな植物園をひらくほどに日本植物学の研究調査に傾倒していた師 シーボルトの影響が感じられます。そして、島原本草学の第一人者となった賀来佐之の軌跡は、ついに島原の美しい博物図鑑『鳥獣図鑑』の成立へと繋がっていきます。

 

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